2005年6月23日 (木)

いのち

ネットを始めてから比較的古い段階での知人のサイトに自殺について書かれていて思うことがあったので少し考えてみる。読み返して思うがだいぶ感情論で書いてるなぁ。

ここから

まず僕自身の立場として、生きていることはそれ自体責任を負うことである、ということが根底にあることを最初に書いておく。

生きてることに耐えられない、それはそうだろう。安息、幸せを得られずに生きることはとても辛いことだから。

だからといって、自殺する権利についてどうこういう権利があるか?ないだろ?という言い回しについて、肯定は出来ない。

必要とされないから苦しむことしかできない?苦しむことが出来るじゃないか。自分の痛みを知覚できるじゃないか。まだ自分の存在を認めているじゃない。

理解されない?誰も他人を理解できない。出来るのは理解しようとすることだけ。自分ですら理解できないんだから。

最終的に自分を肯定できるのは自分。他人に理解されるというのは要因でしかない。他者によって理解されることで今まで自己が成り立ってきたならそれはそれまでの環境が幸せすぎただけのこと。

だから自殺する前にたった一つ考えて欲しい。
自分がただ一つでも幸せと思える部分を。自分より幸せじゃない人なんていくらでもいる。幸せに気づかぬまま死なないで欲しい。

自殺する権利?百歩譲って認めるが自分すらも見えなくなってる状態の奴に大切な人の前から消える権利は無い。

苦しいことに気づかず一生を終えなければならない社会に比べたらずっと優しいと思うのです。

ここまで。

まぁ、精神は死を望んでいても生命体としての身体は生きているんだから、自分の身体に対する責任とか考えてみるんだがうまく文章に出来ないな。

勢いで感情論を言ってしまえるだけまだまだ自分が青いと思った、と。

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